儀式~青い月~ 第2章


さぁっと、赤い花が吹雪のように目の前を覆っていく。
一体どれほどの量になるか見当もつかないほどの赤い花が、小夜の目の前で乱舞していた。
両手を差し出すと、招かれたように一枚ひらりと掌に舞い降りる。
それをふと掴み、目の前でじっと見つめると屋敷で以前見た薔薇よりも些か赤黒く、まるで血のようだった。
誰かが自分の目の前に立つ気配がして、小夜は顔を上げる。
「あなたは・・・誰?」
女のように長く伸びた漆黒の髪は、闇よりもなお黒く艶やかだ。
その人がようやくあの時、出会った彼であると小夜には分かった。
「あなたは・・・」
手を伸ばした手は、赤い花によって阻まれやがて見えなくなる。
声をあげようとした時、小夜自身も赤い花に埋め尽くされようとしていた。
「!!」
一気に覚醒すると、頭を殴られたような痛みに、小夜は眉をしかめる。
痛い、痛いと意識のすべてがその一言に支配されて行く。
「小夜、大丈夫かい?」
聞きなれた叔母の声に、小夜は頭を振って答えようとした。
けれども、痛みによって言葉にならず、動かそうとした腕は動かない。
「あんた、熱があるんだよ。もうちょい寝ておいで」
熱と、小夜は声にならないつぶやきを漏らす。
頭痛が続くそれを、無理やり追い出しながら見渡すとそこは畳敷きであったが、置かれている調度品も繊細かつ精密なもので、自分は中央に敷かれた布団に寝かされている。
叔母の家ではない、だとしたらここはどこなのだろうか。
「ここは、屋敷の別館にある使用人部屋だよ。私の家よりもここの方が治療しやすいと言って旦那さまが与えて下さったんだよ」
そう言われ、ようやく小夜にも納得がいった。
「旦那さまに抱えられて来たから、私はビックリしたよ」
「旦那・・・さまに?」
信じられないとばかりに言うも、思ったよりも掠れた声に驚いた。
「あぁそうだよ。青い花を取って来ると行ったきり・・・夜になっても帰って来ないから心配して捜しに行こうとしてしたんだよ」
持ってきたと思われる桶の中にタオルを洗い絞ると叔母は、小夜の額へと乗せた。
「私・・・どうして」
「崖から落ちたんだよ。全身泥だらけに加えて肩から出血して、危うく死ぬところだったんだから、旦那さまに感謝するんだよ」
そう言われ、小夜は昨日あったことをまざまざと思い出した。
けれども、叔母の言う肩から出血というのはどういうことだろうか。
「私・・・怪我なんてしてない」
「してるじゃないのさ、やだねぇ・・・この子は」
頭を優しく撫でられ、小夜は目を細める。
一瞬、叔母の顔が母と被って見えた。
「もう少し、お休み。小夜」
優しいけれども心強い叔母の声に、小夜の意識は再び深いまどろみの中へと落ちていった。


風が強く吹いている。
昨日の穏やかさとは打って変わってまるで、森全体が荒れ狂っているかのようだった。
嵐でも来るのだろうかと、野暮なことを美佳子は考えてしまう。
先日着ていた洋装ではなく、お嬢様と呼ぶに相応しい和装で美佳子は立っていた。
朱色の鮮やかな着物に、後ろを一つに結び、唇には薄ら紅が挿してある。
その姿を傍目から見るだけで、どこに出しても恥ずかしくないほどの美貌がそこにはあった。
しかし、その表情は目を釣り上げ口を一文字にぎゅっと結び、今にも唇を噛み締めそうな鬼気迫るものがある。
腰に手を置き、美佳子は目の前に建つ古ぼけた蔵を睨みつけた。
腹立たしい。
ギリギリと歯を食いしばりながら、美佳子が睨んでいるとそばで声がした。
「美佳子」
「お父様、いらしていたんですか?」
漆黒のタキシードに鼻の下に蓄えた黒い髭、温和そうな顔で立っていたのはこの屋敷の当主であり、美佳子の父・類(るい)だった。
彼は娘を見るたびに、早くに亡くした妻・翡翠(ひすい)を思い出す。
勝気そうなそれでいて、子供のように無邪気さを兼ね備えた妻は彼を振り回した。
けれども使用人たちからは好かれ、姉御肌気質のある彼女は、事業をやるには少し気弱と思う自分としてはいいパートナーだと思う。
娘は、妻の特徴であるつり上がった眉をそのまま受け継ぎ、負けん気なところまで似てしまった。
対する息子は自分の気弱な気質を受け継ぎつつも、跡目として立派に成長している。
そう思うと、仕事であまり構えない子供たちが自立しているのを見ると、嬉しくもあると同時に寂しく思う。
「お父様、使用人がこちらへ入ったというのは本当ですか?」
有無を言わさぬ言い方に、彼は溜息とともに吐き出す。
その娘は、この家で一番重要で神聖な場所へ足を踏み入れた。
けれどもまだ大丈夫と内心思いながらも、彼はあの時のことを思い出していく。
あの晩、彼は仕事を早めに切り上げ家路へとついた。
その途中、よく知った小太りの女性に会ったのだ。
棒の先に提灯を携え、迷子の幼子のようにおろおろと歩く姿は不憫に思った。
彼女は、自分がまだ若い頃からこの屋敷に勤めてくれており、優しいけれども厳しい人だ。
淡い恋心のようなものを抱えていた時期もあったが、叶わぬ恋と知ったあの時の痛みをまだ、彼は胸に宿している。
けれども彼にとって亡くなった妻も子供たちも大事な家族だと思っていたが、聡い妻のことだ。
きっと、彼女のことも気づいていたのだろう。
そこまで考えて彼は馬車を降りると叔母へと駆け寄った。
「さっちゃん」
「旦那さま・・・」
昔懐かしい呼び名で呼べば、さっちゃんこと幸子(さちこ)は振り返る。
「旦那さま、小夜が小夜がいないんです・・・」
自分に縋り付いてなく幸子を、背中を優しく叩いて慰めた。
それと同時に変わっていないとも思う。
他人からは強いと思われがちな、幸子だが本当は寂しがり屋で甘えん坊な性格であることは自分が一番よく知っている。
昔、彼女が一人誰もいないところに蹲って溢れる涙を拭いながらいる所を人知れず、見たことがあったが、今思えば、あれがきっかけだったのだ。
普段は見せないあの涙を、自分は今でも覚えている。
その想いを今の今まで抱えて背中をさすっているの男だと、彼女は知らないだろう。
「小夜くんかい?」
「はい」
ぱっちりした目は今でも愛らしい。
小夜という娘のことを彼女から聞いて知っていた為、時折目をかけていたのだ。
その娘がいないということはどういうことだろう。
そう思ったとき、山がざわついたのだ。
大きな風が来たのでもなく、大きく揺れた。
彼女が自分にぎゅっとすがる。
けれども、山へと向けた視線は一切動かさなかった。
嫌な予感がする。
彼は彼女を落ち着かせ、山へと入っていったのだ。
後ろで誰かが叫ぶのを気もせずに。
そして、しばらくして歩いた先の目の前に蔵がある。
扉が開いているのを見とがめていた時、彼は舌打ちした。
嫌な予感があたってしまったと思い、中へ駆け込むと小夜という娘が地面へと倒れている。
「っおい!!」
慌てて駆け寄ると、肩から流れた血で着物が赤く染まっていた。
「美味しかったぞ、娘」
声がした方を仰ぎ見た時、口の周りに付いた血を彼はぺろり舐めとった。


それから彼は、小夜を抱えて屋敷へ戻った。
「全く、役に立たない門番だこと。鍵をかけ忘れるなんてあるまじき行為ですわ」
吐き捨てるように美佳子が、そう言う気持ちもわかる。
この鍵を所有しているのは自分を除いて子供たち、そして食事係をしている古参だけだった。
年も年だったために、代わりのものを宛てがおうとした矢先の出来事で、彼女もそろそろ痴呆症のけがあったのだ。
「まさか、こんなことになるなんて・・・」
こめかみを抑えつつ、彼は唸る。
「まぁいいですわ。どうせ、捨てるつもりだったんですから」
「美佳子、あまりそういうことはいうものではない」
「あ~ら?無能な人間をいつまでも扱うほど私たちは暇ではないのよ。お父様」
笑った顔はすでに大人の女の艶やかさだったが、小悪魔のようだった。
「どうするおつもりなんです。あの子があれを夢だと片付けると思っているとでも?」
「いや思っていない。だから、彼のお目付け役にしようと思っている」
「本気ですの?お父さま」
信じられないとばかりに美佳子は、叫んだ。
何度も口の中で反芻しながら、美佳子は父を凝視した。
「あぁ、もちろんだよ。彼女なら幸子さんの姪だ。何も問題はない。むしろ、隠している方が問題になる」
「しかしそれは・・・」
「大丈夫、彼女からは私が説明しよう」
彼はもうすでにこの話は終わったとばかりに踵を返す。
一人残された美佳子は、この有り得ない事態に両手を強く握り締める。
自分の父親が小夜の叔母に、恋心を抱いていることは分かっていた。
あんな豚みたいな人をどうして、自分の父が好きになるのかが分からない。
豚に比べるのも申し訳ないほどに美佳子の母は美しく、気高い。
気品と教養を兼ね備えた女性であったことは、兄から聞いてよく知っている。
自分を生むのと引き換えに亡くなった母を、美佳子は尊敬し慕っていた。
一度も言葉を交わすことなく逝ってしまったために、尚更そう思うのかもしれない。
あるいは、彼女の頭の中で美化され過ぎている感も拭えないのだが。
「信じられないわ。なんであの子が・・・」
言葉を口にすることすら忌々しい。
あの子は自分にとっておもちゃだ。
自由気ままに蔑み、罵倒し、比較し、上から見下げる。
小夜という存在は、美佳子にとって生理的に受け付けない存在だった。
さち薄な顔もそうだし、あの声も、言動も全てが憎らしい。
一度地面にひれ伏せて、あの頭をこの足でめり込ませられたら、額に血が付いたとしてもお構いなしに出来たらどんなに心地よいだろう。
美佳子はいつも、想像する。
彼女を嫌悪する理由なんて分からない、けれどもあの子の全てが嫌いなのだ。
そう、嫌う相手に嫌うだけの理由なんて後からつければいいのだから。
美佳子は、蔵へと再び視線を向けた。
あの中には自分にとって大切なおもちゃがある。
小夜とはまた違った楽しみのあるおもちゃで、代々それを女子のみが受け継ぐとされていた。
現に神山家がこれほど栄えたのか彼のおかげと言ってもいいだろう。
そのお目付け役に小夜が任命された。
先程はあまりのことに何もできなかったが今、父親の胸ぐらを掴んで揺さぶることもできる。
しかし、美佳子は今それをするべきではない。
もしかしたら、今まで自分が思い描いていた行為を、小夜に出来るかもしれないと思った。
そう思うと、体の芯が熱を帯びたように震え出す。
まるで媚薬のようだと、美佳子は思う。
そして、その母親ゆずりの美貌を歪ませたのだった。

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