お膳を下げるために洗い場へと、小夜は戻ってきた。
琥珀にもらった石は、懐に入れてある。
どうして、しまったというのだろう。
顔が熱い、胸が熱い。
「小夜、来なさい」
弾かれたように小夜が顔を上げると、そこには美佳子が立っていた。
淡い色の着物を来て、小夜を睨む美佳子に気圧され無言で後をついていく。
周りの人々が恐る恐る道を開け、後ろをつく小夜を気の毒そうに見つめていった。
やがて美佳子は、蔵へと続く道にある雑木林に小夜を連れ出したのだ。
「なっ・・・なんでしょうか」
胸元を握り締め、小夜は震える声を必死にごまかそうとしていた。
「ねぇ、小夜。いいご身分じゃないの」
「っ!!」
気づく間もなく、美佳子は小夜の首を片手で掴み、一本の木に押し付けた。
呼吸すら出来ず、小夜が無様に喘ぐのに美佳子はどこか嬉しそうだ。
「あれはね、私のなの。分かる?わ・た・し・の」
普段の顔を歪ませ、顔を小夜に近づけて美佳子は言う。
月明かりが彼女を照らす、まるで鬼のような形相をしていた。
「今夜、あれと契約するの。あれと契約すればあれは永遠に私のもの。ふっ、あはははっ」
狂ったように笑ったかと思うと美佳子は、ギリギリと小夜の首を絞め始める。
「ねぇ、苦しい?苦しいよね。ずっとこうしたいって思ってた」
ドンっと後ろから美佳子に倒され、馬乗りにされる。
コロンと、何かが転がった。
「なーに、これ?」
「そっ・・・それは・・っ!」
小夜が手を伸ばす前に、美佳子に奪われる。
「これ、綺麗ね。私のものにするわ」
「違うわ。私が・・・琥珀に・・・もらったの」
「琥珀?あれの名なの・・・へぇ、そう」
美佳子はゆらりと立ち上がった。
それと同時に、小夜の首が解放されそこから一気に酸素が送り込まれる。
小夜はその場で蹲りながら、何度も咳を繰り返す。
「はっ!」
背後から美佳子は、小夜を足蹴にした。
何度も何度も美佳子は、小夜の背中を蹴り付ける。
面白くてしょうがないとばかりに、美佳子は回数を増やしていった。
「ずっとこうしてやりたかったの。あんたが憎くて憎くてしょうがなかったの」
「あっ!!」
「きっといい声で泣いてくれて、私のおもちゃになると思ったの」
歪んでいた。
小夜の視界が、美佳子の顔が。
「あんたの叔母さんはねぇ、私のお父様を奪った人なの」
「・・・・」
仰向けにさせられ、小夜は喘ぐように美佳子を見た。
「お父様は私のお母様と結婚する前からあんたの叔母さんが好きだったのよ。それを知っても尚、お母様は結婚したの」
旦那さまが、叔母をそういう目で見ていたなんて小夜は知らなかった。
「そして私はあなたの叔母さんを見たの。豚よ・・豚」
小夜の胸ぐらを掴み、美佳子は言う。
「あんな豚にお母様はお父様を取られたのよ。信じられる?」
思いっきり地面へ小夜を放り投げた。
一瞬、息がつまり小夜はどうすることも出来ないまま四肢を地面に投げ出す。
「憎い、あの豚の血族に連なる全てがね・・・私は憎いの」
「あぁっ!!」
小夜の腹に思いっきり、美佳子の足が振り下ろされた。
痛みが全身を伝い、小夜は何度も喘いだ。
「気持ちいいわ、小夜。あんたをこうしているとすっごく気持ちがいいの。すぐにあの豚と一緒にこうしてあげるわ。嬉しいでしょう?本望よねぇ~?あはははっ」
狂ったように笑いながら美佳子は、小夜を蹴り続けることをやめることはない。
笑い続け、蹴り続けられる。
「あれも私が一生飼い続けるの。あんたなんかにやらないわ。ざまぁみなさい!!」
美佳子は大きく息を吸うと、何事もなかったように蔵へと去っていく。
一人になり、小夜はようやく体を起こした。
美佳子の足跡と泥にまみれた着物は、転がり落ちた日より尚酷い。
小夜は耐え切れず、胃の中のモノをようやく吐き出した。
あそこでは吐くことを躊躇われ、思う存分吐き出すと木の幹に手を添える。
よろよろと立ち上がると、月明かりに己の体が照らされた。
手を頬に持っていくと、ヒリヒリと痛みが生まれる。
両手両足にうっ血が大小に散りばめられ、あちこちに切り傷も見受けられた。
叔母と旦那さまとの関係にも驚いたが、美佳子が自分にここまでするのが小夜には信じられなかった。
しかも、せっかく琥珀にもらった石までも取り上げられてしまったのだ。
確かに今まで、彼女の気に触るようなことをしたかもしれない。
それでもここまでされるほどのことを彼女へしたつもりも、小夜にはなかった。
悔しさと痛みで、小夜はその場にずるずるとしゃがみ込む。
頭の中で美佳子の声が聞こえた。
琥珀はやらない、一生自分のものだと。
永遠に、美佳子のものになるのだから小夜のものにはならない。
「いや・・・」
思わず口をついて出た言葉に、小夜は狼狽した。
どうして、そんなことを琥珀に対して思ってしまうのだろう。
そして走馬灯のように、琥珀の微笑みやからかった時の顔が思い浮かぶ。
髪を切ったとき、恥ずかしそうにしていたとき。
短い間であっても彼と交わした会話は決して、疎かにしていいものではない。。
ハラハラと桜の花びらが散るように、頬を涙が伝う。
苦しくて息も出来ないほどに、熱いものが喉の奥からせり上がってくる。
好き、どうしようもないほどに自分は琥珀が好きで堪らない。
ほかの人に祝福されなくても、誰の許しを得なくても構わなかった。
小夜が欲しいのは、欲しいと願っているのは琥珀が自分に触れてくれることだ。
「琥珀・・・」
心が痛かった。
名前を呟くたびに、愛しさが増していく。
琥珀に会いたくてたまらなくなる。
一体、いつから自分はこんなにも琥珀を好きになってしまったのだろうか。
小夜は、蔵の方を見やった。
今夜、あの蔵で儀式が行われるという。
その儀式がどうやって行うものか、小夜には分からない。
けれども、琥珀が美佳子のものになるのだけは絶対に嫌だ。
小夜は、強引に涙を拭うと蔵へ向かってよろよろと歩き出した。
ふと、琥珀は小夜のことを思った。
意外と芯が強くて、自分の髪を切りたいと言った小夜の間抜けな顔が思い出される。
見とれていたのだろうかと、一瞬バカなことを考えてしまう。
彼女はまるで月のようだと思った。
そこにいるだけで安心する存在に会ったのは、小夜が始めてだ。
いつしか琥珀は小夜に会える毎日を、愛おしく思っていた。
顔を合わし、小夜が自分の行動にいちいち反応するのが面白い。
ずっと見ていても飽きなかった。
これはきっと、一目惚れなのだと琥珀は思う。
けれどもそれも短い間だ。
今夜、美佳子との契約が交わされればまた自分はここへ縛りつけられる。
そういう契約だった。
けれども、小夜に会いたい。
だが契約のことを言ってはいない彼女が、この時間ここへ来ることはないのだ。
こんなことなら去っるときに言えばよかった。
「いるの?」
半ば身構えるように琥珀は立ち上がった。
そこには美佳子とその父がいる。
元来この契約に携われるのは、神山家の血に連なる女子ものだけだ。
男子として生まれた彼にその能力はなく、美佳子が生まれたことによって開放されたのだった。
彼は重い重圧だっただろう、幼い頃に言われ続けてきただろう。
そう思うと気の毒に思う反面、あざ笑う気持ちもあった。
彼は、西洋のトランクを一つ手に持っており、美佳子の手には不釣合いな銀のナイフが握られている。
「さぁ、始めるわよ」
彼はトランクを開けると中から収められていたグラスを二つ、取り出した。
それを美佳子は受け取り、片方を琥珀に手渡す。
そして、無造作に自分の手首を切りつけた。
己の手首へと斜めの赤い線が現れたかと思うと、血の玉が幾つも浮かぶ。
ポタポタとその血をグラスの中へ、落としていく。
痛みに顔を歪ませながら美佳子は、グラスの中を血で満たしていった。
抉るように血をグラスで半分ほど満たしたところで、ナイフを琥珀に渡す。
「あなたの・・・番よ」
血の気を失った美佳子は、鬼のようで見たものは背筋が寒くなるだろう。
壮絶な笑みを浮かべながら、美佳子は顔を歪ませた。
琥珀はグラスを円卓に置くと、自分の手首にナイフを沿わせる。
小夜の顔が浮かんだ。
これが終われば、小夜には会えなくなるのだろう。
美佳子は小夜を嫌っている。
理由は分からないが、嫌っている相手に自分がいつまでも会えるとは考えにくい。
「早くしなさい」
有無を言わないそれに押され、琥珀はナイフを握る手に力を込めた。
刹那。
誰も来ないはずなのに、蔵の戸が軋みながら外へと開いていった。
「はぁ・・・はぁ・・はぁ・・」
大きく息をつき、荒い呼吸を繰り返しながら立っていたのは小夜だった。
「琥珀・・・」
見るも無残に姿の小夜を、琥珀は呆然と見つめた。
どうしてこんな姿になっているのかは、すぐに見当がつく。
「お前・・・」
「いいじゃないの。たかだか使用人無勢を私がどうしようと勝手でしょう?」
鼻で笑う美佳子は、きっと小夜を睨みつけた。
「どうしてここにいるの?さっさと帰りなさい。ここは神聖な場所よ」
小夜とて分からなかった。
ただ美佳子に琥珀を取られるのだけは、嫌だったのだ。
そして唐突に思い出した。
あの満月の夜、自分の肩口に顔を埋めて最後に見た琥珀の顔が思い浮かんだ。
今にも泣き出しそうな顔をどうして、今まで忘れていたのか。
忘れたままでいられたのかが、不思議だった。
あの目だ。
あれに自分はもう小夜自身ですら、引き返せないほどに魅入られてしまったのだ。
「琥珀!!」
小夜は琥珀に手を伸ばす。
その手はあまりにも儚く、それでいて琥珀にとって手放してはいけないものだった。
琥珀は小さく口の中で、聞き覚えのない言葉を呟く。
「ちっ!」
舌打ちすると美佳子は、小夜の首めがけて両手を差し出した。
「やめなさい、美佳子!!」
「止めないでください。お父様」
正気を失っている人とは思えないほどに、声はとても冷静だった。
「あっ・・・ぐっ・・・」
ギリギリと首を絞められていく。
息がつまり、目の前がチカチカするのを小夜は感じた。
「死になさい、小夜。あんたが死んだって誰も悲しまないわ。むしろ清々するのよ」
「そっ・・そんなこと・・・ない」
渾身の力を込めて、小夜は美佳子の両手を掴む。
しかしその手はびくともしなかった。
すると視界の端で何かが光ったように見える。
それは琥珀からもらったあの石が、美佳子の胸の中で光っていた。
「小夜!!」
琥珀は叫ぶと、小夜は弾かれたようにそれに手を伸ばした。
美佳子の手がより一層強く締め付けられるその寸前に、小夜は石を掴んだ。
それを訳も分からず、美香子に振り回す。
「ぎ、ぎゃあああああ!!!!」
美佳子の口から絶叫が迸る。
彼女の片手が、宙を舞って類のもとへ転がり落ちた。
「あっ・・・」
彼は、その場に力なくしゃがみ込む。
切られた彼女の断面から血が、噴水のように勢いよく流れ出し、そのすぐそばに血だまりが生まれた。
むせ返るような血の匂いだったが、小夜は己の手の中にあるものに見やる。
それは東洋の刀だった。
「小夜、切れ!!」
何を切れと言われたのかは分からなかったが、小夜は自分と琥珀を隔てている鉄格子を切った。
切った瞬間、甲高い音があたり一面に響いたかと思うとそれは唐突に終わる。
「一体・・・」
思わず手元を見るとそれは、もうすでにただの石へと変わっていた。
「内側からじゃ破れなくてね」
こともなげに言う琥珀が、小夜の目の前に立っていた。
「琥珀、琥珀」
何度も何度も彼の名を呼びながら、小夜はすがりつく。
それは美佳子を切った怖さから来るのか、それともこうして琥珀を抱きしめられる喜びからだろうか。
彼女の背中へと回された琥珀の腕の温もりを感じながら、目を閉じる。
「もう、戻れなくなるぞ」
「構わない。琥珀と一緒にいたいの。ううん・・・いさせて」
「そんなこと、させるわけないでしょう!!!」
二人が振り返ると、足元に生まれた血だまりを一歩一歩進んでくる美佳子がいた。
「ひっ・・・!」
あまりのことに小夜は琥珀の後ろへ隠れる。
自分がやってしまったこととはいえ、直視することはできなかった。
「君にはずいぶんとやってくれたからねぇ」
「あんたは私のものなのよ!!豚のものになってんじゃないわよ!!!!」
普段、彼女から聞いたこともないような絶叫が木霊する。
美佳子が美佳子ではなくなったような感覚に、ただただ小夜は震えた。
「消えろ」
「・・・・!!」
小夜の腰をぐっと掴むと、琥珀はいつの間にか彼の手に渡っていた石を美佳子へと向ける。
すると、彼女は一言も声を発さずに消えてしまった。
まるで透明人間にでもなってしまったかのように、跡形もない。
「あっ・・・美佳子」
類は呆然と愛する娘の名を呟いた。
「小夜」
琥珀は今まで聞いたことないほどの甘い声で、小夜の名を呼んだ。
すると、自分の手首を無造作に噛み付いた。
血が出るほど強く噛み締めると、少し彼は口に含む。
そのまま、小夜と唇を合わせた。
「っ・・・!!」
あまりの出来事に、小夜は身をよじったが琥珀に腰を掴まれ動くことすらできない。
舌を入れられ、喉の奥へと琥珀の血が流れ込む。
「んっ!」
目をきつく瞑ると、体中が心臓になったかのように脈が早くなっていく。
互の唇が離されると、小夜の唇から一筋の血が顎を伝った。
「あっ・・・!」
思ったときにはすでに、小夜の目の色は黒から赤へと変わっていた。
「これでずっと一緒だよ。小夜」
優しく琥珀に抱きすくめられ、小夜はその背に手を回す。
そして何故だか分からないけれど、小夜は彼の血が欲しいという衝動に駆られた。
彼の肩口に顔をうずめると、噛み付き血を啜る。
背中へと爪を立てると、薄い生地越しに爪痕が付いたのがわかった。
顔を上げると、先ほどの衝動は消えてなくなっていた。
そして、小夜は類へ向かって振り向く。
「ごめんなさい、旦那様。私たちは行きます」
「行くのか・・・」
小夜は無言で頷く。
あまりの事態に、狼狽えていた彼だったがそれもすでに収まっていた。
愛する娘がいなくなってしまったのは悲しい。
それなのに、何故か酷く安心している自分がいた。
いなくなって嬉しいとは、父親失格だなと場違いなことを思う。
「私、いつかお嬢様と仲良くなれるって思っていました。いじめられてもそれは、寂しさから来るものなんだって・・・・それを紛らわせるためにわざとやってるんだって。もう・・・終わったことですけど、本当に申し訳ありません」
深々と小夜は頭を下げた。
類は思う。
もし、美佳子が小夜に対してもう少し優しく出来ていたのなら二人はいい友達になっていただろうに。
「行くぞ。小夜」
先を促され、小夜は名残惜しそうに類を見た。
類は微笑んで見せる。
「幸子のことは気にしなくていい。行っておいで」
「はい」
小夜はようやく、心の底から笑うことができた。
琥珀と手を繋ぐと蔵の外へと向かって歩き出す。
後ろ姿を見やりながら、これでよかったのだと思った。
これで、彼を自由にしてやれる。
彼はまるで自分だったのだと、思い当たった。
小夜は、琥珀と蔵の外へと出た。 「これから、どうするの?」 「夜が明けるまでにどこかへ行くんだよ」 そう言って、小夜を姫抱きすると跳躍した。 森の木々よりも高く跳躍すると、あの日琥珀と出会った銀色の月が見える。 あの日から何もかも始まったのだ。 だったらこの旅立ちは、希望に満ちたものだった。 小夜は、琥珀にしがみつくと微笑んだ。
このあと、二人がどうなったかは誰も知らない。